決断する技術

人生において最も難しい事は決断する事である。

知りたい事があるなら体系的に学問として成立しているかどうかをまず調べ、知りたい所だけ学んで難しすぎて解らなければどんどん基礎へと掘り下げていけば、中高校生レベルの解説にいつかは辿り着き、そこからまた登って学べばよい。
読解力や”カン”によって学習速度の差はあれど、調べる能力がある程度あるならば大抵の事がすぐ学べる土台は既に出来上がっている。

しかし、前例が無い場合において、物事に決定を下す作業はそう簡単にいかない。
例えば、「日本はもうだめだ」というハナシと、ではその後自分はどうするか?という2点。
人によってバラつきがあるだろうが、ブログ界でオピニオンリーダーと認知されている方がこぞって「日本はダメ」「海外へ行け」「英語力必須」と叫べば大多数の人はそれを信じて次なるアクションを考える。

だが、その「日本はダメ」という決定。これを人の意見で下す訳にはいかない。
40,50年後、我々の世代が定年前後になる時、日本はどうなっているのだろうか。

世界から全く気にされず、国力は落ち、競争力は失うけれども全国各地にある観光だけなんとかなっている微妙な国になっているのであろうか。

それとも新世代の、古い価値観を知らないor嫌う人達が「ものづくりJAPAN」を固く信用して現状を見ない人達を押しのけて、新たな別の顔を持つ新生日本として、戦後の”あの時”のようにJapan as No.1という本が出るくらい輝く国になるのであろうか。

或いは希望を持たない人達が大多数を上回り、一部の超金持ちとその他貧困層という図式が成立し、超高層ビルの殆どが廃墟となり、原因は全く違えど北斗の拳に出てくる舞台のような荒廃した日本なってしまうのだろうか。

今回の日記は、この記事を参考にした。

話しを元に戻す。
現在、私の感覚として数年経たないうちに現在日本がダメになる根拠とする幾つもの根拠の半分くらいが現実のものとなると考えている。そういった大きな話をしていても自分の立場と直接結びつきがある事柄はほんの一部かもしれない、しかしウェブがとんでもない速度で進化してあらゆる常識を否定していく今、人間に求められる価値がナレッジの貯蓄量よりもサキヨミ能力にかかっていると言え、それは深く自分に関係している。
上司や経営陣の言う事が本当かどうか、職歴の長い先輩方が言うアドバイスは理にかなった適切なものなのか、経験した時間が幾ら差があれど、あらゆる点で未熟といえる20代前半からどの分野にいたとしてもサキヨミ能力を育てなければ、年を取ってからではどうにもならないリスクを回避できないだろう。
年金を現状では絶対に支払えないのにほとぼりを冷ます努力しかしない政府を見ていると、特にそう感じる。

大学に入ったから専門分野を勉強するだけ。
就職したからあとは目の前にある仕事を真剣にこなすだけ。

言われた事をすれば評価された時代は既に終焉し、何から何まで疑って全て一人で把握せなければ(しようとする努力)、この先絶対的にやっていけないと考えている。

そう思う根拠は、至ってシンプルである。
昔は「知っている」事に価値があった。
詳しければ詳しい程評価され、学校の先生は知っている知識を学生に与え、評論家と呼ばれる人は知っている事を述べればなんとかなった。
きっとそんな時代であったと思うのだ。
今現在はどうだろう。その知識はGoogleの登場で検索エンジンというソリューションをもって何から何までインデックス化され、電車の終電時間であれば駅名+乗換えと検索すれば良いし、住所を検索すればGoogleMAPが検索1位に表示される。
我々は○○を調べたければ△△へ行けという記憶さえする必要がなくなってしまった。

ある分野に詳しい事が不利になることはまずない。
勿論現在でも詳しければ詳しい程、見えない世界が見えるようになるだろうし、基本はさほど変化は無い。
しかし、詳しい事が目的では無くなり、「あなたは○○に詳しい。それで?」と次を問われる時代になったのである。
例えば学校の先生である分野にめちゃくちゃ詳しくても、学生が自発的に学ぶ様な人になるよう仕向けられるかどうかは知識量で決まるわけではない。
優秀なサッカー選手が、引退後それに比例して優れた監督になれるわけでは無いと同じようなものだ。
個人的な感覚止まりであるが、人は評論家的な立場を好む傾向があるように思う。
モノゴトの”決定”を避け、自分の意見を外に出す事よりも、既にある他人の意見にコメントをする方を好んだり、私自身も含めてそういった態度を取る人はたくさん見てきた。

自分の意見というのは、簡単な様に思えて実に難しく、メールではなく対話だとよりその難易度は高くなる。
ある話題に判断を下す際には、自分の判断の妥当性について十分な根拠が必要であり、対話の場合だとそれプラス反対派が自分の判断に納得しないであろう部分に対する回答も同時に用意せねばならないからだ。

とあるシンポジウムでカレーと鍋、どっちがインタラクティブであるかというプレゼンがあった。
どちらが優れているという話題ではなく、カレーは材料をいれて蓋を閉じてじっと待つもので、
鍋はそこにいるメンバーによって内容に変化があり、自分が食べたい時に煮て食べたり、駆け引きや合意形成が求められている。
まさしく鍋はインタラクティブである。

カレーと鍋を、先の話に照らし合わせると、昔はカレー系の仕事が殆どであったが、今とこれからは鍋系が中心になるということである。
先にゴールと呼べる「やりたい事」を決めてその後それをどうするか話を煮詰めるカレー型プロセスから、ある程度の「不確定性」のノリシロを認めて、「やりたい事」は決めずに、出来上がったモノが人間社会とどう関係し合うか程度まで決めておいて、あとは鍋のように自由に料理しながらやりたい事がクネクネと変化する鍋型プロセス。

不確定性要素が増えれば増えるほど、決断に至るまでの変数は膨大化し、論理的なやりかたから「感覚」に任せないと不可能な決定事項もあるだろう。
鍋系の仕事が中心になると、その決断する技術はより高度化する。
鉛筆を転がして決めない様、「感覚的」な部分を言語化するトレーニングが必須である。

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