mixiニュース日記に思うこと

ウェブがもたらした大きな現象:評論家の大量発生。
まずはこの増田を。

ラーメンが松本人志
http://anond.hatelabo.jp/20090602012124

以下一部抜粋

あるときを境に、松本は笑いを語りだした。あまりに大きくなりすぎたせいで、誰もがその禁忌を許してしまった。それは欽ちゃんにさえ許されなかったことなのに。松本は遅れてきた世代の芸人たちに大きすぎる影響を与えただけでなく、視聴者のあり方さえ変えてしまった。松本のように笑わせることはできなくても、松本のように芸人を評することならできる、あるいは、できるような気がする、できている気分になら浸れる、そんな視聴者を大量に生み出したのだと思う。その結果、ぼくたち視聴者は「ただゲラゲラ笑う」という行為に後ろめたさや劣等感を覚えるようになった。笑いが、笑うことに圧力をかけ始めた。そして笑いは大衆芸能からファッションになった。笑いに対するものの見方に、「オシャレ・わかってる」と「そうじゃない」が現出した。

同様に、誰かがラーメンを語りだした時期があったんだと思うんだ。ぼくたちはただ能天気にズルズルとラーメンをすすることが許されなくなった。ラーメンもまた、大衆のものから、ファッションツールになってしまった。

かなり味のある文章なのでついつい引き込まれてしまった。


この話はお笑いやラーメンだけでなく、ネット全体に広がっている現象であるといえる。
個人が自己主張できる場が形成されたので、あれこれ自由に意見が言えるとなるとその矛先は内部より外部へ向けた方が第三者が読んだ時に価値を持つ。
自分自身のワークスタイルやスキル云々を記事にしてうまくいく人はほんの一握りであり、それよりもニュース記事や日々身の回りで起こってる現象について自分なりの考察を書くスタイルの方がとっつきやすい。
それをより簡単にその価値だけを抽出したサービスがTwitterなんだと思ってる。

本題に入ると、そもそもこの批評好きな傾向は人間誰でももつ感情に由来しているといえる。
それは「この人より自分は優位だ」という感情。
逆に自分が劣っている事をわざわざ表明することで同じ様な効果を得られる場合もあるが、その話は置いておく。
長者番付、抱かれたい●●ランキング、ミシェランガイドブック、●●鑑定、世界で最も影響力のある●●、大学入学偏差値(偏差と文字に書いてあるのに順位の様に扱われている)等など数えだしたらキリがない。
物事に序列を付けて実態を知らなくとも優劣を把握すること自体に、人は興味をもつ生き物なのかもしれない。

最も解りやすくその傾向が見られる場所はmixiニュースにトラバした日記。
コメントが集まりやすいのは「3人乗り原付きに逃走車が衝突、5人死傷」の様な、加害者=悪人と被害者=善良な市民とは一見見受けられないような記事である。
被害者は原付に3人乗りをし、そこに違反車両で警察から逃亡中の車がぶつかったというニュースだ。
上記の衝突事故では、2人の若い人が実際に死亡している。

それにも関わらず「クソガキは地獄で反省しろ」「馬鹿を巻き込んで自爆か」などと、素性を知らない若者二人の死を責め立てる人がかなりたくさんいる。

こんなひどいコメント欄になってしまったのは「3人乗り」していた事が書かれているからだ。
もし16歳の原付にのっていた少年が撥ねられて死亡したと書いてあれば、きっと「カワイソス」一色で埋まるだろう。
「3人乗り」という文字が記事にあるかないかで、被害者は同情されるか死しても尚馬鹿者と罵られるか決まってしまうのだ。

罪の無い少年が撥ねられたと報道されれば「かわいそう」コメントが並び、心無いコメントがあれば叩かれるだろう。
逆に「被害者も悪い」パターンの場合、心無いコメントが許容されてしまう。殺人者が亡くなった時も同様に。
このスイッチが入ったかのように文章だけで人の死に対する感情が180度逆転してしまう現象は私には理解出来ない。

素性を知らない人の死に「死んで当然」とか「かわいそう」などと言う権利は無いと思っている。
「かわいそう」は一見遺族の感情を配慮したコメントに見えるが、結局は他人に変わりは無く、たまたまmixiにログインしたら目に入った文字に反応して「かわいそう」と言っているだけであり、そういった短絡的な感情の吐露自体そもそも不要なのだ。
そういう話は居酒屋で友人同士との席で「あの事件かわいそうだよねー」と、一時的に倫理観の共有さえすればよいだけのチラ裏な話なのである。

なぜかというと、被害者がもしかしたら強姦した経験がある人かもしれないし、死亡したのが殺人犯でももしかすると報道されない誰もが同情しうる理由があって罪を起こしたのかもわからないからだ。
報道で発表された事が絶対正しいわけでも無と誰もが思っているはずなのに、「解った気」だけで安易に善悪の判断をしてもどうしようもない。
梅田望夫が苦言を呈したのはこれに近いのではないだろうか。

mixiは極端な例であるが、ブログは元々評論家的な口調にならざるを得ない性格を持っている。
私のブログでもPC用品レビューは除いて、最近ではMMORPG喫煙モラル、そしてBuzzurlのブクマコメントなどで個人的な価値観が含まれたことを長々と書いている。
今回のこの記事も、mixiニュース日記に対する個人的な批評に他ならない。
大抵は書いても特にリアクションは無いのだが、喫煙モラルについて口を出した時は、ツッコミ先のブログにリンクされた事からアクセスが急増し、メールで非喫煙者の方からたくさんお叱りの言葉を頂いた。

ラーメンの勝手に批評話から重い殺人事故の話へ移ってしまったが、分析をする時はその対象と程度が妥当性を持つものかどうか吟味することが肝心だ。幾ら小難しい統計学を用いてもサンプリングがダメなら全部ダメな様に。

人間は直感的に生きていると動物的本能が優先されてしまうから、そのつど「論理的に」考察をし、頭を使う癖を付けておかないと豊かな人生を過ごせないと、そんな事をどこかの本で拾い読みした。
しかし、この分析にも密度があり、mixiニュース日記で私が批判したのは密度の薄い分析であるところだ。
分析をすればするほど、対象への理解は深まる反面、「ただ純粋に」という行動を忘れてしまう。

好きで聞いていた音楽や映画、その他興味の対象がいつしか自分のアイデンティティの一部と考えるようになり、その自分の領域といえる目に見えない縄張りに中途半端な人が入ってくるものならば、「わかってない」や「トーシロめ」と苛立ちを覚えた人は結構いるのでは無いだろうか。
好きなものに自分が浸透すればするほど、それがプライドになり、より探求しようと「論理的に」物事を考えるようになり、結果として楽しめなくなる。

これは物事の理解の深みを目指す者への宿命なのかわからないが、趣味を仕事にすると嫌いになってしまう事があるように、「何も考えないから」良いという事もたくさんあるのだ。

2 Replies to “mixiニュース日記に思うこと”

  1. 好きで聞いていた音楽や映画、その他興味の対象がいつしか自分のアイデンティティの一部と考えるようになり、その自分の領域といえる目に見えない縄張りに中途半端な人が入ってくるものならば、「わかってない」や「

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