ランニングと死

先々週に課題が無事終わり、あと2週間後に大学院の入試があるのにも関わらず思ったように集中できないでいた。
今になりようやく火が点いたのだが、テンションを上げるには毎度同じ方法を取っている。

それは走る。
すごくシンプルで、高校の時からこの方法は変わりない。
走るといっても家の回りを軽くランニングして汗を流してリフレッシュというよりは、長時間かけて身も心もクタクタになるまで走る方だ。
距離にして約16キロのルートを、走っては歩いてのインターバルを繰り返す。
下町→集合住宅地→オフィス街→公園→オフィス街→超高層ビル街→集合住宅地と少ない距離ながら景色が変わる私のお気に入りのルートである。

気分転換を図りたい時、ある人は音楽を聴いたり歌ったり、ある人は絵を描いたり、自分が好きな事をしてテンションを上げていくものだ。しかしながら、私の場合それでは気分転換とはならず、「現状を忘れるくらい」疲れないと他の事に頭が切替えられない。

先日、ふと友人のブログに祖父母がお亡くなりになった事が書いてあった。
私も今から6年前、病院で療養中祖父が急性心不全で亡くなった事を思い出す。
故人にあれこれ言うのは失礼であるのは承知なのだが、当時生まれて初めて自分の身の回りの人が亡くなった時に思った事を書いてみる。

祖父はご近所や親戚でも話題にあがるほど、私に愛情を注いで無かったらしい。
私の9つ年上の従兄弟ばかりを贔屓していた様だ。
記憶があるのは保育園の頃市電に乗って祖父と銭湯に一度行った事のみ。
たった一度だったから20年近く前の事を今でも微かに覚えている。
それ以外は月に1度か2度見かけたら挨拶をする程度でコミュニケーションは皆無、対する母親方の祖父は母親が実家に帰省した際一緒に鮎を釣りにいったり薪を割ったり、軒下に出来たスズメバチの巣を退治したりと滞在中はずっとそばにいたので、今でも会うとよく話す。
だから私の「大好きな優しいおじいちゃん像」は年に2度母親の実家に遊びいった時に会える母親方の祖父なのだ。

私が高校生の頃は、親の愛情があっても無くても、唯一絶対無二の親族なのだから、無くなれば友人や恋人などとは違う感情を持つものだと思っていた。
しかし、友人と車を運転中に祖父の訃報を受け、急いで病院へ行き動かない祖父を見て「ああ亡くなったのだ」と、父親の父である祖父の死に驚く程冷静であったのだ。

人は死を前にして演技は出来ない。
祖母は泣き崩れ、父親は別室へ行き、母親は家族を落ち着かせようと取り計らう。
その後の通夜でも、葬式でも、親戚や祖父の友人は悲しむ。
火葬の時だけは色々と思う事があったが、私一人だけが最後まで涙を見せず、悲しい表情さえも出来ない。
悲しいと思いたいが、本当に接点が無さすぎた為に頭の中で他人化してしまい、嘘泣きは出来ないし、したくない。
その2日間はとても苦しかった。

自分が大切だと思ってる人がなくなるという事を想像すると、頭の中で考えるだけで悲しくなる。
そこには家族だからとか親族だからとか、そういったタグは関係無く、あるのは自分が大切と思っているかどうかのみなのだと。

そんな事をランニング中考えていた。

1 Reply to “ランニングと死”

  1. wordpressより: ランニングと死: 先々週に課題が無事終わり、あと2週間後に大学院の入試があるのにも関わらず思ったように集中できないでいた。
    今になりようやく火が点いたのだが、テン.. http://bit.ly/qND4F

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